今日は8/15日、終戦記念日。
第2次世界大戦後の、先進国と言われる国々での経済発展で、私たちは本当に幸福になったのか?と、いうことを少し考えてみたくなったりします。
確かに、命の危険はなくなった。
しかし大量生産、大量消費のモノのつくりかた、売り方、所有の仕方が、きっと曲がり角に来ている。
特に「ジュエリー」は、最も高額品の部類に属するので、戦後のモノが大量に供給される仕組みのなかで、象徴的な道を歩んできたように思えます。
「ジュエリー」はずっと、富を手に入れた人たちの憧れであったけれど。
モノを所有することが、ステイタスであったけれど。
しかし、今はモノを所有するというのが、実はそれだけでは人は幸福になれないとうことがわかってしまった。
石として大きいから、クラリティが高いから、ブランドだからということで値段が高くなり、それを身にまとっていることが、今けっこう、かっこよくない。
確かに、ダイヤやサファイア、ルビーなどの石はとても美しい。
けれど、そこに、自分の生き方と照らし合わせて、「自分だったらこういう感性のものを選ぶ」という、身に着ける人自身の生き方、つくる側のメッセージを伝える覚悟みたいなものが必要なのかもしれない。
誰のためにという視点と、モノができ上ってきたプロセス、そこから初めて生まれる美しいラインや機能的な美しさがきっとある。
本来のデザインの意味「社会の共通の問題をくみ上げて、それを解決していく」という、デザインの本質に立ち返ってみる必要がある。
どういうプロセスを通って、だれがどういう風にモノをつくり、出来上がって来たか。
そういうことを、売る側もきちんと情報発信していかなければいけない。
今、ヨーロッパ,北欧では、コンテンポラリー・ジュエリーのエキジビションが非常に多く開催されるようになった。
コンテンポラリー・ジュエリーの定義は、非常に曖昧で、アートとしてとても身につけられないというモノもあれば、コマーシャルジュエリーとの中間を行くようなデザインのものもある。
こういった、身につけられるアートはこの先もっと、私たちの生活に入り込んで、私たちの心を豊かにしていくような気がしてならない。
アートとしてのジュエリーもいいし、もっと軽いアクセサリー的なジュエリーもいいだろう。
今までコマーシャルジュエリーが果たしてきた役割にとって代わるような、アートとデザインの間のような、それでいてとんがった感性を感じられるジュエリーというのも必要だろう。
そんなわけで、最近はコンテンポラリー・ジュエリーの感覚のいいアーティスト達と一緒に、新作をつくるようになっています。
ジュエリーという究極の「モノ」を通して、「モノ」の価値とか、存在する理由を、この終戦の日に考えています。
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