この時期になると、娘が学生時代毎年のように「進級できません。どうしましょう?」と、学校の方に呼び出されたことを思い出す。
とにかく娘も息子も二人とも、自分の感覚でくだらないと感じたことはまったくやらない。
学校は、多少1~2ヶ月程度の行けない時期とかはあったかも知れないが、高校生活は楽しんでいたように思える。
朝おなかが痛くて学校に行けなかったり、卒業できそうになかったり、まあ憂えることは結構あるのですが、そういうときに実は親の方が心配になってしまう。
子供はまだ十代だったので、多分自分でもどうしてやらないのかも、わからなかった。
ただ怒られ、悪い子だと言われる日々を過ごしていた。
ただ、感覚的にやりたくない。
これは、違うな?と思ったのかもしれない。
実は、そういうい感覚ってとても大切なのではないかと少し年月を経て思う。
養老猛の「逆さめがね」という本があったけれど、私たちは相当既成概念にとらわれていて生きている。
反対から見てみると驚くほど新しい世界が広がっている。
そういうことを、子供から学んだ。
長く人生をいきてきたからって、その感性や感覚が育つわけではないのである。
むしろ変なプライドや固定した思考が身についてしまって、面倒なのです。
なるべく、面倒にならないように、そういう心を柔らかくしてくれるのが、芸術だったりデザインだったりする気がしてきた。
娘は今は美大に進んで卒業し、映像関係の仕事についている。
息子はITのベンチャー系の会社に就職して仕事をし、休みの日はずっとなにやらプログラムを組んでいる。
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