前回、断舎離とジュエリーリフォームについて書いてみたのですが、今日のほぼ日の「今日のダーリン」の中で、糸井重里さんがこんなことを書いている。
ほんとうにたくさんの人が死ぬ。
生まれる人もたくさんいるのに、
そのことを忘れそうになる。
どこかでひとり生まれたからといって、
だれかが死んでいいということにはならない。
でも、人はかならず死ぬということについては、
ひとつの例外もない。
(中略)
その人が生きたせいで、ここにあるもの。
そいつが、生き続けているのだ。
こどもがいたら、こどもはまさしくそういう存在だ。
その人が買ったもの、つくったもの、書いたもの、
その人が語ったことば、怒ったもの、悲しんだもの、
その人が抱きしめたもの、その人が育んだもの、
その人が別れたもの、その人が歩いた道、
その人が吸った空気、その人が祈ったこと、
すべて、そのまま、その人が死んだからといって
いっぺんに消えたわけではない。
そして、ものも、ことばも、場所も、思いも、
その人が死んだあとも、続きを生きている。
(ほぼ日イトイ新聞2017年6月25日より)
ああ確かに。
ジュエリーをつくっている立場からすると、たぶん私が死んだ後もこのジュエリーは残るのかもしれない。
いやいや、ゴミ箱行きかもとも思う。
たぶん、とにかく今自分が持てる能力を最大限生かした仕事をできれば、と思ってはいるけれど断舎離の対象になることもあるでしょう。
それもいいと思う。
ただ、私は黙々と仕事をしているだけである。
私が死んだ後も、関わったジュエリーが少しだけ誰かの日常に溶け込めていたらそれでいい。
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