南方熊楠(みなかたくまぐす)展に行ってみました。
南方熊楠展
南方熊楠は1867年に現在の和歌山に生まれ。黒船来航、明治維新の少し前に生まれたということになります。
大学予備門(現東京大学)を経て米英に留学、動植物学・人類学などを学び、大英博物館で職を得たり、Nature誌に様々な論文を寄稿。
言語は18ヶ国語を話したといわれています。
しかし、帰国後は特定の組織に属さず、和歌山県の田辺に住んで、粘菌・民俗学研究に没頭しました。自然科学、人類科学、民族学、宗教学など、分野の枠を超えた学者として知られています。
南方熊楠がすてきだなあと思うのは、あれだけの海外経験を持ちながら、西欧近代文化をそのまま日本に持ってきてもあまり意味が無い。
日本は日本の文化や歴史や風土に根ざした独自の思想を生み出して、それを世界に発信していくべきだと考えていたことでしょう。
岡倉天心と金工、そして日本のジュエリー
南方熊楠と同時代に、岡倉天心がいました。
彼も当時のボストンで、ボストン美術館中国・日本美術部長就任などをし、今の東京芸大の基礎を築いた人物です。
彼もまた、日本の伝統美の価値を認め、それを西洋に広げようとしていた。
西洋化の波に飲まれる日本の中で、日本の文化的、思想的価値をに意味を見出していたのでしょう。
今、東京芸大には、日本画学科を始め、陶芸や金工、漆芸など、日本の伝統工芸の学科が設置されていますが、それは岡倉天心の強い意思があったのではないかと考えられています。
当時金工科では、加納夏雄と海野勝珉(うんのしょうみん)などの、元々刀の鍔(つば)などをつくる刀剣金工の卓越した制作者たちが指導に当たっていました。
緑青「アール・ヌーヴォーに影響を与えた 幕末・明治の金工」(アリア書房)の本はいつもお店に置いてあります。
彼らの作品は、パリ万博などでも賞を受けるなど、非常に高い評価を得て、日本の独自の文化や技術、思想が西洋諸国の人々に衝撃を与えていました。
じつは、こういった刀剣金工の人たちが、西洋から入ってきたジュエリーを見よう見真似でつくり始めたのが、日本のジュエリーの歴史です。
そして、今美大の金工科からは、金工の工芸の世界だけではなく、コンテンポラリージュエリーなどを志す若手も巣立っています。
この明治初期からの近代化が猛烈に進む中で、南方熊楠、岡倉天心など当時の世界的視野がある人たちは、日本が世界の中でどういう位置づけで進んでいくべきなのかを考えていたように思います。
今、生活は便利になった。
けれど、私たちは経済優先の行き過ぎた世界の中で本当に幸福感を持っているのかというと、とても疑問です。
金工文化の歴史を背景に持った日本の独自のジュエリーが、何かしら、経済主義先導のブランド文化に一石を投じるてもいいだろう、と考えています。
それには、ただ伝統の技術を引き継いでいるだけではなく、広い視野で新しいものを生み出していくという意識が必要でしょう。
今、モノづくりに求められているものは、自分たち独自の感覚で、つくる、提供する、身につける、ということなのかもしれません。
ジュエリーに携わるものとして、今回の南方熊楠展から、少し感じたことを書いてみました。
近年、南方熊楠について書いたり、語ったりして、裾野を広げたのは、人類学者、思想家、宗教学者の中沢新一さんだろうと思います。今回のブログも、こちらを一部参照させていただきました。
中沢新一さんが書いた下記の文章がとても分かりやすいのでご一読ください。
コメントを残す