ジュエリーをつくる、売るという仕事が今、もっとも時代遅れに感じる理由
東京は今日も快晴で、富士山がくっきり見えます。
こんな景色も、少し高いところに登ると東京でも見ることができるのですね。
最近は若手のジュエリーを製作している人に出会う機会が多いので、ちょっと「ジュエリー」という仕事について、今私が感じていることを書いてみたいと思います。
正直、「ジュエリー」という、従来のイメージお金持ちが、富を得たステータスとして売られ、買われる時代は終わりのほうに向かっているような気がします。
確かに、新興国ではそういった豪華なジュエリーが飛ぶように売れている。
私も2年ほど前に、バーレーン、ドバイ、アブダビなどを2度ほど訪れたことがあって、現地のジュエリー会社の見学、社長さんとディスカッションもさせていただき日本との違いを肌で感じました。
今彼らの見ているのはMENA(ミーナ, Middle East North Africa)なんだそうです。
しかし、いわゆる経済先進国という国々では、もうそういった、金持ちのステータスであるものを見せびらかすというのが、あまりスマートではない。
そんな雰囲気を感じませんか?
それだったら、もうすこし社会に還元しようだとか。
もう少し自分個人だけではなく、色々な人に良い影響のある意義のあるものにお金を出そうだとか。
自分なりの、「買う理由」というものを、人々は求めているような気がします。
そういう意味では、ステータスの象徴であったジュエリーは、最も時代遅れで、まさに不要の長物でしかない。
そのなかでジュエリー業界の人間たちは、「売れない」と言っているけれど、まあ当たり前といえば、当たり前なんです。
社会の人たちが求めていないのです。
幸福感の転換期
その、矛盾は常に、私のなかにあります。
家業であるこの仕事を始めたときの最初の違和感は「なんでみんなジュエリーなんて高いものを買うのだろう?」という驚きでした。
でも、この感覚って、実は正しかったのかも知れないと、今思っています。
「資本主義」というと、すごく話が大きくなってしまうのですが、結局は大量生産、大量消費の上に確立されて来た「幸福感」みたいなものが、今、根底から崩れていると思います。
自分ががむしゃらに働いて得た対価としてのお金で、ステータスであるジュエリーを買うという行動が、もう人の「幸福感」を満たさない。
誰のためにつくるか
とはいえ、「ジュエリー」というものを太古の昔にもっとさかのぼってみると、富の象徴としての意味合いもあるけれど、家族や愛する人たちへ、想いを受け継ぐという意味もあったことがわかります。
私はあえて、後者のためにジュエリーをつくろうと思っています。
豪華な、成功の象徴としてのジュエリーも、確かに素晴らしい部分もあるのです。
それは、人がつくり得る技術と美的感覚の粋を極めているから。
それはそれで、決して否定はしないけれど。
私がつくるジュエリーはそういう意味合いのものではなく、今の閉塞感に満ちた社会や、既成概念でがんじがらめになっている人たちが、ほんの少し安らげる、そんな感じのものです。
いいものには、理由があり、生き残るべき意味がある
そのために、やっぱりきちんとしたプロが作る仕事を提供したいと考えています。
確かに、超高級ジュエリーのレベルまで仕事を質を持っていけるか?といえば、それはウソになるでしょう。
だから、一品もののハイジュエリーをつくっている人には笑われてしまうかも知れないけれど、それでも最終的に身につける人のことを考えて、ずっと使えるものを提案しよう。
確かに今求められている、コンセプトありきの仕事の仕方も社会を良い方向に導いていくためには必要。
その一方で、そこにはやはり昔からこつこつと技を磨き上げてきた、職人の仕事が大切だと感じています。
いいものを、生きながらえさせる。
あえて、最もいらないといわれる、しかも高額の時代遅れの仕事を通じて、これからの「幸福感」に少し提案をしていこう。
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