正直「ジュエリー」という言葉が嫌いだ。
その、音から受けるイメージがとても嫌い。
「ジュエリーの仕事をしています。」というと、とにかく高いものを売るというイメージ。
そこには、なんら創造性とか、ものづくりへのこだわりだとか、そういったものを感じてもらえないからだ。
こだわりを感じてもらえたとしても、時代の先端で、新しい感覚で物事に取り組んでいるというようには、感じてもらえない。
自分自身も、お金のある人しか買えないモノを売ることに、ずっと違和感をいだいていた。
でも、それでは安いものを売ればいいかというと、そうでもない。
そういう意味では、今お手伝いをしている、11/1~14の新宿伊勢丹メンズ館での、若手コンテンポラリー・ジュエリー・アーティスト達の提案は、かなり意味があるのではないかと思っています。
若手ジュエリー・アーティストを教えたくなる 副島舎人(そえじまとねり) 新宿伊勢丹 JAPAN SENSES 「JEWELRY & LIFE」 11/1(水)~14(火)
彼ら、コンテンポラリー・ジュエリー・アーティスト達は、私と同じ様に、ずっとジュエリーの価値の概念と闘って来たんじゃないかないか、と思うのです。
素材価値に価値を置くか、その創造性に重きを置くか。
ある意味、人はなぜモノを買うのか。
素材価値だけではない、人が傾けた情熱や、一般の人たちには考えの及ばない創造性や、その意味について問いかけるものになると思う。
「ジュエリーというものの概念を変えてしまおう。」というたくらみでもあります。
そして、それが作品と言うものに凝縮されていて、説教がましいところがない。
最終的には、見て、「いいね」「つまんないね」という感覚で判断されればいいと思っている。
金銭的に評価される価値というのは、外から見ていて「へーすごいね。」と心から思うことに、お金を払うことだと思う。
そして、それを買った人が幸福感を得られることだと思う。
コンテンポラリー・アート・ジュエリーとは1960年代にヨーロッパで始まった活動です。
その当時、日本でも学生運動があったり、フランスでも5月革命と呼ばれるような、一部のブルジョアの特権階級を否定し民衆の元に力を取り戻そうとした運動だと認識しています。
ダイヤの1Ctを見せびらかすより、そのデザインや創造性を評価しようとした動きと言えば、すこしわかりやすいかもしれません。
1ctのダイヤモンドが、美しくないかといえば、それは嘘になるだろうし、耐久性の面でも優れている。
どちらの価値観がいいとか、悪いとかではなく、もう一つの道もジュエリーにはある。
そして、ジュエリーを含め、モノという物質的なものが、人に与える幸福感というものを、この伊勢丹 JAPANE SENSESの新しい試みで考えてみたらどうだろうか。
それによって、それぞれの人の生き方によって本当に所有すべきモノの真実が見えてくるような気がします。
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