INTERVIEW2016.03.04
白石朗(あき)さん
外資系企業コントローラー
母からの教え
「踏まれても踏まれても起き上がる、雑草のように生きなさい。」
10年間の子育てブランクを経て、パートから始めて転職、ステップアップを繰り返し、現在は本社からの信頼も厚い外資系企業のコントローラー。
自分のスタイルを確立してわが道を行く。軽快で、潔くて、強い魅力的な女性です。
米井現在のお仕事の内容を教えてください。
白石外資系メーカーの日本支社のコントローラーの仕事をしています。日本と中国のディビジョンの業績をまとめ問題点を分析、予算を立て常に前進させるという仕事です。
米井今までのキャリアの変遷をうかがってもよろしいですか?
白石大学を出て、外資系の銀行に勤めました。そのときは簿記2級程度しか持っていませんでした。29歳で子供ができたので、退職。その後、10年ほど専業主婦をしました。幼稚園のママ友とお茶などをする生活。
米井税理士の試験を受けたのですか?
白石昔少しだけ簿記の勉強をしたことを思い出し、税理士の試験を受けてみようと思って、勉強し始めました。
ところが、税理士の試験は思った以上に、勉強すること、覚えるこが多くて大変。数科目は受かったのですが、子育てもあり中々受かりません。そこで、今度は子供が少し大きくなってきたので、会計事務所に2:00までのパートに出ることにしました。
米井パートから始められたのですね?
白石その後、もう少し近くの会計事務所に、そしてもう少し大きな会計事務所へと転職しパートで働いていました。その後、子供も手がかからなくなって来たのでフルタイムで働き始めました。
米井今の会社はかなりシビアに英語が必要なようですが、そういった外資系で働くようになったのはどうしてですか?
白石最後に正社員で働いていた事務所にはクライアントに外資系のアカウンタント(会計士などの専門職)の仕事をしている人が来ていました。しかしこの方を見て「自分より全く仕事わかっていない。これなら私でもできるかしら?」と思ったのです。昔外資系金融機関に少々勤めていたこともあったので外資系もいいだろうと考えていました。幸い外資系のリサーチ会社にファイナンス・マネージャーの求人がありそこに応募しました。
米井10年以上のブランクを経て、英語が必要な仕事に復帰したのですね?
白石面接で「もう10年も英語使っていませんし、英語力不安なのですが大丈夫でしょうか?」とたずねると。「大丈夫です。大して英語は必要ないですよ。」と言われ安堵して、外資系リサーチ会社に入社しました。
米井外資系勤務大変ではありませんでしたか?
白石実は大変でした。入社してみると、初日から英語の電話はかかってくるし、メールもどんどん入ってくる。会議も英語で、ちんぷんかんぷんなんです。それでも、どうにか「こんなことですか?」とか「こんな感じでしょうか?」って聞いてみると、「うんうんそうそう。」みたいな感じで、「やった当たってた!」というような綱渡り状態の毎日。そんな繰り返しで外資系の仕事を再開しました。
しかし、そのときの経験で人間の能力とは計り知れないと実感しました。「火事場の馬鹿力」ではないけれど、必死にやれば、ピンチの時にこそ眠っている自分の能力が、むくむくっと起きあがってくる。そういう力が人には眠っていると思います。
米井家庭との両立はどうなされましたか?
白石子供が結構大きくなってから、フルタイムで働き出したので、そういう意味では楽だったかもしれません。土日に家事をまとめてやって。あんまり大変だったっていう気がしない。
米井それでも、やはり大変ですよね。苦労を苦労と思っていないのでは?
白石私丈夫なんです!それじゃなきゃ続かない。健康大事ですよね。
一方で病気になるとめちゃくちゃ気が弱くなる。治るのもまあ早いので、そうするとすっかり忘れちゃう。
米井外国人の方との接点は小さいころからあったのですか?
白石小さいときから、外国人と遊んでいました。練馬の田舎なのに何故か外国人の家族がいたんです。彼らと交流がありました。
外国人の友達が、意地悪だったのを覚えています(笑)。帰ろうと思ったら、時計までもっていて「まだ4:00だから大丈夫だよって。」嘘を教えられて。泣きながら帰った思い出があります。
米井英語はどうやって学ばれたのですか?
白石受験勉強ですごく勉強しました。大学は法学部ですが英語をかなり勉強しました。
サンケイスカラシップという奨学金があって、生活費・学費も出してくれるものでしたが、勿論すごい倍率で24人だけの枠の一次に受かったけど、その後8人に絞られる時点で落ちてしまいました。自分では、応募書類をタイプライターで打たなかったから落ちたんだと思って、その後すぐにタイプライターを買いに行きました。
米井そこですぐに買いに行くところがすごいですね。英語が好きだったんですね?
白石そうですね今は全然単語覚えられないですけど、いまだに高校時代勉強した単語を思い出して使っています。
米井英語以外の要素で、グローバル社会の中で生きていくにはどうしたらいいでしょう?
白石本音で話すのが一番大事。
こびへつらうとか、そういったことをやめ、自分の持っているものを自信を持って言うという姿勢が大切だと思います。わからないことは「わからない」と言ってごまかさない。そうすることは自分にとっても楽だし、相手側もその人のことを知りたいと考えているものなのです。
子供が小さいときに「話し方がわからない」と聞かれたので、みんな話すことがわからなくて困っているんだから「自分が思ったことを口に出せばいいのよ」と応えました。
そしたらすごいおしゃべりになってしまって。彼の話は失敗談かうまくいったことの話かでとても面白いんです。
米井白石さんの仕事の進め方で大切にしているのは
白石時間の無駄がきらいです。社交辞令とか要らないから、本題に入ってどんどん進めましょうと思ってしまう。
年齢と共に仕事の責任がだんだん重くなってくるので、結果を出さなければいけなくなってきました。メールを出した後、待っていられなくて電話します(笑)。そうすると、相手側も慣れてきてすぐにメールを返すようになりました。今はいつまでというゴールがあるから人を動かさなければいけないので、自分の仕事のペースを周りに認知してもらう必要があります。
外資系はやはり、実力を見せなければいけないという部分はあると思います。
最近は「私もいっぱしのプロフェッショナルだね!」なんて思います(笑)
米井パートから始めて「プロフェッショナル」と言い切ってしまう。そこまで到達しているのが素敵ですね。また裏にうそが無いのがいいです。本当のプロフェッショナルです。
白石私のモットーは
「拘束されない拘泥しない。」
面倒くさくなく生きる。サッパリと生きたい。ということでしょうか?
周りの人たちは分かってくれないと思うけれど。分かってくれなくてもいい。まあいいや。勝手にわからないでいなさい。そんな感じです。
米井お母様の影響は結構ありましたか?
白石「雑草のように生きなさい。」
「踏まれても踏まれても起き上がる雑草のような生き方をしなさい。」と母から言われました。
銀座で美容院をやっていたので、お客様には色々な有名人や芸者さんがいました。ですから自分の生き方の上でしっかりした哲学がありました。
最近、親ってすごく責任が重かったと思います。
米井シンコーストゥディオとの出会いは、お母様のネックレスだったんですね?
白石何でもない母の古い丸い珠のアメジストのネックレスを持って行ったんです。
そしたら、さっとデザインを提案してくれたんです。それで「すごいなここ!」って思いました。ずっと眠っていたこのアメジストのネックレスが着けられるようになったんです。変化のあるケシパールとのコンビネーションでバリエーションが生まれて普段に着けやすくなりました。
米井そんなに感動してくれていたとは、ありがたいです
白石千歳船橋に宝石店があるということ自体が驚き!なぜ、こんなところに。
しかもセンスがいい!
米井その後お母様のダイヤをペンダントに直したり、ご自分の婚約指輪を普段の仕事でも着けられるようなリングにしましたね。
白石シンコーストゥディオのジュエリーは、通常に着けるのがいいと思います。
和の感じがいいな。「これ良くない」ってさりげなく友人に宣伝しています。
米井そうなんです。普段に着けて欲しい。
心折れそうなときにこそ、一緒に闘う、一緒に人生を歩む。身につける。そういう力がジュエリーにはあるかもしれないと思います。
つくった人の真摯な想いが反映されているものを普段につけて欲しいです。プロフェッショナルの意識があり、本音で話す、達観している。そういう人につけてもらいたえたら本当にうれしいですね。
ジュエリーという何百年経っても変わらない素材、卓越した職人の仕事だからこそ、長いスパンで人々を元気付けることができるのかもしれません。
米井白石さんにとってジュエリーとは何ですか?
白石「満足感。」
疲れちゃったとき、この宝石のことを考えて、ちょっと楽しくなる。
いやなことがある時でも、この宝石があるからいいやとなる。
人に見せたいというのもあるとは思うけど、どちらかというと自分の満足感のためでしょうか?
米井ジュエリーというと、富の象徴であるとか、人に見せることで満足するものと思いがちです。しかし本来のジュエリーの本質は人の内なるところにあって然るべきなのかもしれません。ありがとうございました。
EDITOR'S NOTE
最初に出会った頃は、何となく不思議な雰囲気の方だなと思っていました。自分を持っていらっしゃるというか、それでいて何だかふわっとしていて発する言葉が小気味よいのです。
今回初めて知ったお母様の言葉。「踏まれても踏まれても起き上がる雑草のような生き方をしなさい。」この人生哲学は圧巻です。この言葉を常に心に抱いて人生を歩んでいらっしゃったのですね。
おそらくコントローラーの日々の仕事は、実は本当に細かいことの積み重ねなのではないでしょうか?ご自宅でのインタビューの間も、PCはつけっぱなしで海外からのお仕事のメールがいつでもチェックできるようにしてありました。「豪快さと繊細さ」その相反するものを同時に持っておいでです。まずやってみる。そして「くじけないゾ!」という意気込みを感じます。その上でとても軽妙で楽しく人生を歩んでいます。
「面倒くさくなく。サッパリと生きる。」
まさに、それを体現している実にハンサムな女性でした。
シンコーストゥディオ 代表 米井 亜紀子
製作 「ひたむきに生きる人のために・ストーリーブック」製作チーム
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